糸島まごころ葬儀羅漢の竹島です。
志摩町の方を、ご自宅でお葬儀した時でした。
「羅漢さんには姫島でお世話になりましたね」
と、ご住職から声をかけていただきました。
もう16〜17年前の事でしたのに、ありがたい言葉でした。
当時姫島の方は火葬を済ませた後、ご自宅に戻ってお葬儀をする、いわゆる「骨葬」というスタイルでした。
たしか、漁師さんの船に祭壇道具一式を積んでいただき、姫島に渡った記憶があります。
ご住職に声をかけていただいた日の前後、ちょうど私は、20代の頃夢中で読んだ司馬遼太郎さんの
「世に棲む日日」を読み返していて、高杉晋作が辞世の歌を詠む場面あたりでした。
ご存知の方もあると思いますが、
「おもしろきこともなき世におもしろく」と高杉晋作が上の句を詠み、
「すみなすものは心なりけり」と野村望東尼さんが下の句を詠むのです。
…先日私は16〜17年ぶりに休日を利用して、野村望東尼さんに逢おうと姫島に渡りました。
このスケッチは、望東尼さんが藩命(福岡)により投獄された獄舎です。中を覗いてみると、わずか四畳くらいしかなく、此処で十ヶ月におよんだ月日に思いをはせると、胸にせまるものがありました。
今は「野村望東尼御堂」とされていますが、御堂の向い側には凛とした顔の胸像があり、御堂の横には
「野村望東尼獄中歌」という案内板がある。
冒頭に明治維新の女人勤王家野村望東尼は慶応元年(1865年)十一月十五日、勤王の志士を平尾山荘にかくまったかどにより藩命を受け姫島へ流罪となる。慶応ニ年(1866年)九月十六日高杉晋作の命を受けた藤四郎等により救出される。とあり、十数編の歌が書かれてありました。その歌には姫島の人々との交流を歌っているものもあり、土地の人の望東尼さんを想う心をうかがい知る事ができました。
御堂を後にして帰り道、五人ほどのおばあちゃんに出会ったので、挨拶がわりに、
「野村望東尼さんに逢ってきました」と言うと
「一番の便で来たとな」と言うので
「はいっ」と答えて別れました。
姫島の人にとっては、野村望東尼さんは特別な存在のような気がしたものですから。